学園都市。
学生が八割を超えるこの街で一番空気が重くなるのが夏休み直後だ。
空はまだ青く太陽は燦々と輝いていて気温も暑苦しいままだというのに学業だけが普通に始まってしまう。
長期休暇中の開放感とダラけた生活も引き締められて両肩の上に窮屈な生活がのしかかってあちらこちらでため息の音が聞こえてくる。
そういう空気が蔓延してわずかな隙間からも忍び込んでくるような、そんな時期だ。
もちろん三年生受験生の上条当麻にはそんなものは関係ない。
関係ないはずなのだが雰囲気とやらは感染する。
どんよりと顔を暗くする学生たちをあちらこちらで見かけてしまえば、余裕があって羨ましいと思いながらもだんだんと自分の吐く息も重くなってくる。
ましてや寄り道を含めた学校からの帰宅路。自然、体も草臥れている。
これはいかんな、と自身を引き締めながらも上条は寮であるマンションのエレベーターのボタンを押した。
ねっとりと肌にこびりつく湿度は相変わらずだ。
今、上条の右手には学生鞄が、左手にはケーキの紙箱が下げられている。
中に入っているのは特製特大のシュークリームでケーキではないのだが、まぁシュークリームの箱とは言うまい。
半同棲の間柄の御坂美琴が注文していたらしい小ぶりなシュー、キャベツサイズのシュークリームが一つ。
それを受け取るために三十分ぐらい遠回りし崩れないように気をつけながらの帰路だった。
どうしても疲労している。
しているが。
まぁ、これでアイツの笑顔が見れるんなら安いもんだよな。
と、鞄を下げたまま伸ばした人差し指で八階へ上昇するボタンを押した上条の顔には笑みが浮かんでいる。
いつまでも草臥れたままでいるわけにもいくまい。
軽く足裏が浮かび上がるような感覚の終了と共にエレベーターは八階に到着。
垂れ下がりつつある前髪をうっとおしいと思いながら両手が塞がっている上条は部屋までのわずかな距離を足早に歩いた。
ドアの前に立つ。
学生鞄を持ったままの右手でドアノブを回す。
がちゃ、という音と共にノブが回転――するはずが途中で止まった。
鍵がかかっている。
おや、と小首を傾げた。
どう考えても人の気配はある。
恋人は中にいるらしい。
そりゃ、無用心だからと鍵を占めるのは構わないがいつもはこんなことはしていないはずだ。
疑問に思っているとぱたぱたとつっかけたスリッパが床を叩く足音がした。
ドアの覗き窓が黒くなる。
こんなことをしなくともドアの向こうの存在ぐらい電磁波で理解できるはずなのに。
「おい、何してるんですか。上条さんはお帰りですのよ。早く開けてくれよ」
壁越しでも声ぐらいは届く。
特段恩に着せるつもりはないが受験生の身分で学校帰りにわざわざ寄り道をしてきたのだ。
締め出される筋合いはない。
が、
「当麻、そこに誰もいない?」
とドア向こうの美琴はへんちくりんな確認をしてきた。
繰り返すが彼女は薄扉の向こう側の人数確認ぐらい何の問題もなくできる能力者である。
「あ? なんなんですか、誰も居ないってばさ」
怪訝な顔をした上条がそれでも辺りを見回す。
狭い通路だ、誰かを見落とすということはありえない。
隣の部屋の金髪サングラスかその妹のメイドがひょっこり顔を出す可能性もないわけではないがとりあえず無視してもいいだろう。
「誰もいないのよね?」
「いないってば」
語尾を上げる確認の問いに再び視線を巡らせながら上条が答える。
若々しさがないかもしれないがそれ相応に疲れているのだ。あまり遊ばないで欲しい。
そうするうちにがちゃ、とシリンダー錠が回る音がした。
さらにかちゃり、とチェーンを外す音もした。
どれだけ用心深いんだよ、と流石にうんざりした上条が隙間から中を覗き込む。
すると、
「―――なっ!?」
絶句/唖然/硬直。
大きく口を開けて上条が固まった。
この時うっかりと手の力が抜けて学生鞄は落としたがシュークリームを落とさなかったのは素直に褒めていい。
「ほら、とうま、入って。はやくはやくっ」
手招きする腕は白く肩まで抜けていて胸元のフリルのついたエプロンまで何も身につけていない。
ふわふわとしたミント地に恋人お気に入りのカエルが大きくプリントされたエプロン。
そこからはみずみずしい肢体が伸びていて、首元も大きく開いて細い鎖骨を晒し控えめな胸元のラインをわずかに匂わせて。
膝への丈は二十センチもない。
ここで怪しげに風でも吹いたらすべてめくり上がってしまう。
本当に身一つエプロン一つ。
正確には左手の薬指には上条のプレゼントしたアトラスのホワイトゴールド。足元はふわふわニットのゲコ太スリッパ。
「なっ、なん、なにをっ!」
ここで反射的に鞄を拾って部屋に飛び込んで後ろ手に鍵をかけたのは上条の人生の中で十指に入れていいファインプレーだったかもしれない。
誰もいないと分かってはいてももし万が一こんな姿を誰かに見せてしまったりしたら、と喉の奥に冷たい空気の塊を飲み込む。
じわり、と違う汗をかいたことを自覚しながら上条はようやく人語を思い出した。
「馬鹿かお前っ! 見られたらどうするっ!超がつく有名人だろうがっ! 雑誌とか変なサイトとかに載ったらどうするんだよっ!」
「だから誰もいないか確認したじゃない」
わざとらしく小首を傾けて上目遣い。
伸ばしている肩甲骨まである明るい髪がさらりと揺れた。
「ここは学園都市だぞ!? 詳しくは知らないけれども、超光学望遠レンズとか、能力で撮影されるとか、いくらでもあるだろう!?」
「大丈夫大丈夫、電磁データならどこにあっても破壊できるわよ。私は超電磁砲だもの」
「そんなことじゃなくってだな!」
顔をしかめながら説教をしようか、と思考し始めた上条だったが、恋人の顔に陰りが浮かぶと言葉が止まる。
先ほどの態度以上にわざとらしいが、それでも悲しげな表情をされると何も言えなくなる。
「驚かせたかった、んだけどなぁ」
「いや、それは確かに驚いたんですが」
「ちょっとは喜んでくれるかなって思ってたんだけど、自意識過剰だったよね?当麻コスプレ好きだし、これなら衣装汚す心配ないかなって思ったんだけどね」
「いや、嬉しいですよ? ただ本当に驚いただけで」
強引で危ういアプローチだがその裏側にある視線を感じてしまえば不快な気はしない。
より一層魅力が増すだけだ。
自動販売機に回し蹴りを入れて缶ジュースをギっていたお転婆娘がこうも変わるのだろうか。
抱きしめたいという気持ちが止まらなくなる。
そうして、わかりきったような演技にわかりきったような言葉を重ねていって、ようやく美琴の機嫌が治る。
言ってみればゴッコ遊び。
台本のない予定調和だ。
男は惚れた女には決してかなわない。
そういうふうにできている。
ましてや、
「お風呂にする? ご飯にする? それとも、わ・た・し?」
なんて昭和枯れススキレベルのお約束を言われた日にはノックアウトは確実だった。
ぐう、とうなった上条の胸元にどん、と美琴がいいパンチを入れる。
しかも直後にはかかとを浮かして軽く唇を重ねてきさえした。
「一回言ってみたかったんだけどさ、やっぱ恥ずかしいわね、これ」
顔を真っ赤にして虚勢を張って。
生意気にも程がある可愛らしさに先ほどの疲れはどこへやら、上条の身体の一部に見る間に血流が集まった。
美琴以上に顔が真っ赤になるのを、ズボンが窮屈になるのを、そして喉がカラカラに乾いているのを自覚しながら。
まだぶら下げていたシュークリームの入った箱を玄関脇、台所の流し台に置く。
ふらふら、と少しだけ距離をとって、呼吸を整えて。
わずかに離れた三歩の距離。振り返ってみれば真っ赤な顔をした恋人が後ろ手に上条を見つめていた。
「あ、今日は当麻も脱いでね。上半身だけでいいから」
「はい? 今日は、って美琴――」
「うん。私は今日は一日このまんまです。いやぁ、今の時期じゃないと絶対風邪ひいちゃうもの。ある意味でシーズン限定よね」
「そんな解説はどうでもよろしくてですねっ!
――マジ、なのか?」
「大丈夫。カーテンも閉めてあるしさ。ご飯食べたりテレビ見たりとかだけでもきっとドキドキしちゃうと思うのよねぇ。ある意味すっごく安上がりじゃない?」
「そういう問題か?」
「あ、あとさ」
言って、美琴がその場でくるりと一回転。
軽く回って腰下の部分のエプロンがひらりと舞う。
しかし、丸くて白いヒップや薄い陰りは見えなかった。
何故ならば、
「一応、下は履いているからさ。部屋、汚したくはないし」
青いストライプに愛らしいカエルのバックプリントの下着が下半身を隠していたからだ。
はは、と上条が軽く笑う。
一方でふざけんなよ、と心のどこかで思う。
両生類など世界から消滅させてやってもいいとすら思えてしまう。
常識に竿をさせば喜ぶべきところだが、上条の中にだって情欲に流れている部分もある。
漱石ではないがとかくこの世は生きにくい。
とかなんとか考えていると。
「ほらほら、アンタも脱ぐのっ!一人だけこの格好だと恥ずかしいじゃない」
と、ワイシャツのボタンを外され始めた。
着ているシャツのボタンを外されるのだから当然上条のすぐ傍に美琴の身体がある。
そして背が高い方でもない上条だが、オンナノコである美琴よりは背が高い。
まして、美琴の今の姿は裸にエプロン一枚で胸元は大きく開けている。
「あ、あの上条さんこれでも受験生でして、少しは勉強しないとまずいんですが」
乾いた声で言えば、説得力ないな、と上条が自省する。
何より本当に言い訳の言い訳に過ぎない。
大体、どうあがいたって既に欲情している。この状況で赤本や黄本を開いたって問題が解けるわけがない。
「してこなかったの?」
「そりゃ学校ではしてきたけどさ」
「じゃあいいじゃない。こないだの模試だって十分合格圏だったじゃない。そのご褒美だとでも思ってさ」
四当五落。
なんて言葉が受験生の当たり前だった時代もあった。
五時間も眠ったから受験に失敗とか、それって基本的に間違っているよなと思う反面、だからって気を抜きすぎていてもどうだかな、と上条は思う。
幸いというべきか、今の調子で頑張れば第一志望は狙えるし徹夜をしたから成績が上がるというわけでもない。
気分を切り替えるため、エンジンをフル回転させるニトロとしてのイベントがあってもいい。
うん、そうしよう。
とか上条が考えていると。
何時の間にかカチャカチャと美琴がベルトを外しにかかっていた。
「ちょ、ちょっと美琴さん!?上半身だけってお話でせう?」
「うん、それ嘘。というか、なんか窮屈そうなんだもの」
何が大丈夫なんだ、と心の内で反論してそれでも逆らえない自分に上条は嘆く。
なんなの、この満面の笑顔。
そりゃ笑顔が見たいなぁ、なんて思いながら帰宅しましたがそうですかこうですか。
うん、開き直る。こうなったら思う存分楽しんでやろう。
ようやく覚悟を決めた上条は自分から足を上げてひっかかっていたズボンをするりと脱ぎ捨てた。
ここでいきなり恋人を選択できるほど上条は図太くない。
とりあえずは食事。というか注文して持ってきたシュークリームである。
端末で注文した際に美琴が既に代金を払い込んでいたため上条は携帯電話に転送された受け取り票を見せるだけで貰ってくることになった巨大シュークリーム。
膝の高さのテーブルの上にどかんとのせられたそれは丸々とした小ぶりのキャベツであった。
保冷剤を入れてあったことを考えても中身は普通に生クリームなのだがこの大きさでどうして生地が壊れないのか。
おそるべし学園都市、と上条が考えているところを美琴が切り分ける。
このサイズになるとホールケーキに概念的には近いらしい。
上半身を屈めて包丁を握って真剣な面持ちで八等分していく姿に上条もどうしても真剣にならざるを得ない。
上体を下ろせば自然、胸元が大きく開いて白い乳房が垣間見えるのだから。
砂漠を風に踊らされてロール状になった枯れ草が転がる夕方、サボテンやらが存在する乾いた大地。
テンガロンハットの男が二人。
空に舞う一枚のコイン。
そんな西部劇の決闘シーンのような妙な緊張感が漂ったり漂わなかったり。
そうしてようやく切り分けた八分の一をフォークとスプーンでそれぞれ賞味する。
ふわっとしてしつこくない甘さのクリーム、生地はさくさくと香ばしい。
固いゼリーがクリームの中に埋もれていて、噛み潰すたびに閉じ込められていた爽やかなフルーツの果汁が口内で新たな音階を奏でる。
生地全体にかけられた白い粉はアーモンドのようで、それがさほど主張しない割にはしかりと鼻腔の中のハーモニーに加わっていた。
「うん、美味しい」
咲桜色に頬を染めた美琴が生地でクリームを掬って口に運んで、言う。
「そうか、よかったな。確かに美味しいよな、これ」
返答する上条だが視線はあちらこちらと彷徨ってどうにも落ち着く場所がない。
言葉もどこか検討ハズレの匂いがする。
恋人の顔に集中しようとすればどうしたって身体の方に視線がいってしまう。
かといって部屋の中に意識を振り向けられるほど目新しいものはない。
そっちに無理やり意識を持っていってしまっても本能のうちにかちらりと白い四肢へと瞳孔が動いてしまうのだ。
自分もまた下着一つだ。
舐めるような視線をどうしても感じてしまう。
細かい汗が背中に張り付いていた。
どうにも、この部屋は微妙に暑いようだ。顔も火照ってしまっている。
やっている行為はお互いが裸体に近いという一点以外は日常の範疇。
だがこの異物が混じっただけで世界が別のものに書き変わっている。
違和感がフィルターになって、バイアスとなって、当たり前である光景がどことなくピンク色のオーラを放っているように感じてしまう。
それに慣れたくないのか、そわそわした気分は全く収まらなかった。
どうしたって喉が渇く。
一緒に淹れた冷たいお茶を一口喉に流し込む。
それでも身体が熱い。
「なんか、暑いかもしんないわね」
言って、火照った顔の美琴がエプロンの胸元を掴んで大きく引き出した。
パタパタとやって風を入れる仕草をする。
「―――っ!」
上条も暑いとは感じている。
だから恋人のする動作は極めて自然だ。
日常/非日常の境界線に心臓がガンガンと高鳴っている。
頭がぼうっとなって彼岸へと渡ってしまいそうになる。
かつて少年のようだった肉体は健康的なまま魅力的な女体へと進化していて、肌はすべすべてシミ一つない。
強気な反面脆いところもあって妙に保護欲をかき立たせる。
その癖、年下なのに姉貴ぶって指示してくるところもある。
とても綺麗/魅力的だ。
「あー、ヤラしい目で見てるわねぇ。
すっかり鼻の下伸ばしてさ」
ごまかすような、からかうような目つきで美琴が上条を見つめた。
鼻の頭あたりに小さな汗粒が浮かんでいてそれが妙に艶やかに光る。
「ほら、私のあげるから、ね? ほら、あーん、して?」
言って、スプーンに乗せた生クリームを上条に差し出してくる美琴。
ひとつのシュークリームを切り分けたのだから同じ味のはずだ。
だが、差し出されたクリームは意識が蕩けそうな程に甘くて、そしてそれに負けないほどに胸の奥で甘酸っぱさを感じた。
「――甘い、な――」
ただ、それだけの言葉を返すので精一杯。頷くのが精一杯。
汗をかいているのに指先が冷たい。
前歯の噛み合せ方がわからなくなる。
それほど上条は追い詰められているのに、
「今度は、私」
と、美琴は目をつぶって顎を突き出し、口を開けた。
自分もやってほしいという意思表示。
ほかの場所ほかの状況でやってもバカップル間違いなしの無防備な顔。
出会った頃だったら絶対にしないだろう表情。
かちかち、と前歯と前歯をぶつけながら上条は恋人がやってくれたように生クリームをスプーンですくった。
そして小さな口へと差し出す。
舌に匙が触れ、ぱくんと銜えられ。
次の瞬間には恋人がニコッと笑った。
「当麻に食べさせてもらうと一段と美味しいっ!」
その笑顔の愛らしさが上条の心臓を射抜く。
心臓の加速が止まらない。上昇気流に乗ったかのようにどんどんと切なく愛おしくなる。
同じぐらいに欲情が膨らんでいく。
もう…我慢できそうにない。
「あっ、ちょっと……んっ………ダメ///」
終わり
引用元
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1350107497/